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東畑開人先生の「ふりかえり」随想

あとの祭り― 美をめぐる対話について ―

【前篇】

東畑 開人
なかまクリニック

はじめに

日本語臨床フォーラム創立コンベンション《美の精神分析――その幻想と幻滅》〔2011年5月〕を終えてのエッセイを残す機会を、編集者の津田敏之さんより戴きました。発注されたタイトルは《あとの祭り》というものでした。それはフォーラムの当日、美というテーマに巻き込まれて、発熱した自分自身を考えることの出来るタイトルであるように思います。
フォーラムの日になされたのは、美を語り合うということでしたが、そこには固有の困難があり、その困難は美という現象の本質に内在しているもののように思います。ですから、このエッセイを通して私は美を語り合うこととはどういうことなのか、ということについて考えてみたいと思います。それはフォーラム当日のことを考えることであると同時に、臨床の場でクライエントが美を語るときに私たち臨床家がそれを聞き、応えるそのありようを考えることでもあるように思います。

美をめぐる二つの対話

人は古くから美について語り合うことを重ねてきましたが、そのような語り合いの本質を示す、二つの有名な例を挙げたいと思います。

 ひとつは源氏物語の一節「帚木」の雨夜の品定めです。五月雨の夜に、光源氏を囲んで、頭中将、左馬頭、藤式部丞が女性談義を交わす場面です。彼らはそれぞれに自らの理想の女性像を語り、自分自身の過去の女性との思い出を語ります。それらはいずれもメランコリックな色彩を帯びた語りです。語りを聴く者たちは溜息をついたり、うなずいたりするのみで、語りに耳を傾けます。語りは結論に向かっているわけではありません。それぞれがもの思いに沈んでゆきます。
日本語臨床コンベンションの日、「美の始原としての母親」というテーマの議論がなされましたが、古今、女性は美の象徴として多くの人に語り合われてきました。雨夜の品定めは現在でも十全に生きられ続けています。大学生一年生が集うところでは、至るところでそれを目撃することが出来ます。
ここで美についての語り合いは、ただただその会話の楽しみのためになされています。それぞれがそれぞれの美にうっとりとし、もの思いに沈んでいくのです。そして、雨夜の品定めがそうであるように、その対話自体が美的な性質を帯びることになります。

もうひとつはプラトンによる「ヒッピアス(大)」という対話編です。そこでは、意気揚々とした若きヒッピアスが老獪なソクラテスから美についての論戦を挑まれます。ソクラテスは「美とは何か」と問いかけます。得意げなヒッピアスは、それに対して「美しい乙女」「黄金」「裕福で健康で、ギリシア人に尊敬され、老齢まで生き、自分の両親亡きあとこれを立派に弔い、そのあとで自分の子どもたちによって立派に、そして偉大な人間に似つかわしい仕方で埋葬されること」と答えますが、ソクラテスに論破されてしまいます。ソクラテスが「美とは何か」と問うたのに対して、ヒッピアスが「美の具体例」を挙げているに止まったからです。果たしてこの対話は物別れに終わります。ヒッピアスが「人はくだらないことや愚にもつかないことに今のように憂身をやつして、あまりにも無知な男と思われないためには、これらの言論の細切れにはきっぱり見切りをつけ」るべきだと捨て台詞を残し、ソクラテスは「美しいことは難しい、という諺の文句がいったいどういう意味か、私にはわかるような気がする」と嘆きます。
この対話は史上初めて「美とは何か」と哲学的に美が問われ、語り合われた例です。そこでは美は個々の視覚的イメージを剥ぎ取られて、ヒッピアスの言ったように細切れな乾燥した言葉へと散り散りになってしまっています。だからこそ、この対話はどこか白けた、苛立たしさを内包したものとなっています。

美についての対話は個々がもの思いに沈んでいくか、あるいは物別れに至るか、いずれにせよ参加者がそれぞれの主観性に隔離されていくことが起こると言えます。それは美が抜き難く個別主観的なものであるということに起因していることです。彼の美と彼女の美は異なるもので、私の美とあなたの美も同じものではありえません。だからこそ、北山先生が言うように、同じ美を錯覚しているという繋がりが得難い瞬間として価値を持つのだとも言えるでしょう。恋人たちの語らいから、国威発揚に至るまで、同じ美にうっとりとする一体感は、人間の営みの根源に位置するものと言えます。
しかし、それでは美について、どのように考えることが可能で、どのように語りあうことが出来るのでしょうか?ソクラテスとヒッピアスが苦しんだように、美を学問的に考え、語ろうとすることには固有な困難があります。ひとつは「これが美だ」「それは美ではない」と美の個別性は議論を成り立ち難くさせることです。もう一つの困難はファウスト博士が「ねえきみ、すべての理論は灰色で、緑なのは生命の黄金の樹だ」と嘆いたように、学問的なまなざしは緑なす美を灰色の言葉へと乾燥させてしまうことです。そして、この二つの困難は本来同じ根を持つものと言えます。

(以下【中篇】につづく)

 追 伸
このエッセイで書かせて頂いていることについてより広汎に論じた拙著『美と深層心理学』が京都大学学術出版会より発行されました。タイトル通り、美という表面を深層心理学が扱い損ねてきたこと、そしていかに美=表面を深層心理学することが可能になるのかを論じた本です。シンポジウムの当日に提示した事例と、その私なりの理解もその本に収められています。よろしければ、お読みいただけるとこれ以上の幸せはありません。

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