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日本語臨床コンベンション2012

印象記

北村隆人
東洞院心理療法オフィス・太子道診療所精神神経科

日本語臨床フォーラムのコンベンション2012は、「自然」をテーマとして、6月24日、京都市の花園大学を会場にして開催された。
総合病院で長く勤務してきた私にとって、このテーマは強く興味を引かれるものであった。というのは、治療をめぐる患者さんの判断に、「自然」という概念が大きな影響を与えていることに気づいてきたからだ。たとえば患者さんの中には、「薬は人工的なものだから、できるだけ使わないようにしたい」といって、市販のクロレラ製剤を沢山のむ人がいる。あるいは食事がとれなくなっても、「自然な死を迎えたい」と希望して、点滴すらも拒む方もいる。このような経験を積み重ねる中で気づくようになったのは、多くの人において「自然」という概念が規範的なものとして作動していること、そしてこの規範性がその人を心理的に支えつつも、時にその人の自由な思考を妨げてしまうことがある、ということだった。
このような問題に直面していたから、私は今回のフォーラムを非常に楽しみにしていた。二人の碩学は、自然に対する批判的思考をどのように展開するのだろうか。そして二人の異なる視点がぶつかるとき、そこにどのような生産的な議論が繰り広げられるのだろうか。そんな期待を抱きながら、会場に赴いた。

では当日のプログラムにそって、お二人の議論を追ってみよう。

◆ 自然さと不自然さの相克をどうのりこえるか

最初のプログラムは、「自然な自己natural self-人は自然にいきることができない」と題して行われた北山先生の講義であった。ここで北山先生は、以下のようなことを語られた。

ヒトは、生理的早産で生まれてくる特徴をもつ。それゆえほかの動物と違って、最初は絶対的依存の状態で生まれてしまう。母親はこの状態の赤ん坊に対して献身的な育児を行うが、それは完璧なものではありえず、お母さんが赤ん坊の気持ちをくみとれないときが必ず生じる。このとき赤ん坊は、その母親にあわせなければならなくなる。ここに、迎合的な自己、あるいは偽りの自己が形成される端緒がある。そして同時に、この偽りの自己と、秘められた内なる自己とのあいだに分裂が生じはじめる。人間は原初的な状態からこのような基本的分裂を抱えているため、そもそも自然にはふるまうことができない。

まず北山先生は、このような逆説が人間には存在論的に備わっていることを指摘し、その上で、日本人の特徴として自然をめぐる次のような心理があることを指摘された。先生によれば日本人は、自然に逆らわず、天命に身を任せることを是とする面と、内なる自然を表に出すことを重視する面があり、この二つの面が引き起こす葛藤にさらされているのだという。
 では、このような葛藤を人はどのように生きていけば良いのだろうか。この問いに答える際に、北山先生は、村上春樹の一節-相反的なるものの同時存在の中にこそ、私たちの偉大なる〈普通性〉があるのではないか-を引用し、さらに異類婚姻譚やウィニコットを参照した上で次のように答えられた。曰く、「矛盾は逆説で把握することが重要」だと。
 それは具体的にはどういうことなのだろうか。たとえば人は自然にふるまおうとして、あえて「考える」という不自然なことを避ける傾向がある。しかし、人間が自然に生きようとすると、逆に自然が破壊されてしまうおそれが生じる。自然にふるまうことに潜む破壊性を考慮に入れれば、われわれはどうしても「考える」という不自然なことを通じて、自然さを回復するという逆説を積極的に生きなければならない。
 北山先生はそのように述べて、講義を終えられた。

◆ 噴出する自然にどう対処すべきか

さて午後からは、河合先生の講義「自然の喪失と噴出:内面・震災・村上春樹」が行われた。この講義の中で河合先生は、心理療法における「自然」の意義について、より大きな歴史的フレームの中で論じられた。先生の主張を要約してみよう。

古来人間は、アニミズムの世界で生きていた。つまり魂は、自然の中に存在するものだとみなされていた。そのような中では、精神的に不安定な人がいれば、それはたとえば「きつねが憑いた」と把握された。
 しかしデカルトのコギトの認識が端緒となって、この認識は変化した。次第に自然から魂が奪われ、こころは人間にしか存在しないものとみなされるようになり、それとともに、こころの問題は内面化されることになった。現代心理療法は、このフレームの中で展開している。
 さてここで、錬金術に着目したユングに話しを転じよう。ユングは、錬金術において論理、特に否定の論理が重視されていることに注目した。論理性が展開する際には、つなげること、わけることがくり返し生起するが、ユングはこれを「結合と分離の結合」と呼んだ。そしてこの特性が、西洋的な思考の特徴の一つになっている。
 一方、日本では、論理性にたよるのではなく、美的に処理をする傾向がある。たとえばその典型は、庭園や盆栽のような、自然を人工的につくりあげる技術の特異的発展である。そのため日本においては自然が完全には喪失されず、内面化も徹底されなかった。日本で箱庭療法が爆発的に流行した理由のひとつは、このことにあるのかもしれない。
 しかしそもそも、人間は自然を征服し、コントロールすることができるのだろうか。それは不可能であり、現実の事象を見れば「自然の噴出」が起こっていると言わざるを得ない。たとえば里山でサルやシカが里山を荒らす事例がよく報道されるが、これはその一端であるだろうし、東日本大震災もまたそのような事象としてとらえることができるだろう。

このような認識を示されたあと、河合先生は「あくまでアクロバティックな論理展開だが」と前置きをされた上で、心理療法の現場でも、「葛藤モデル」から「噴出モデル」へと転換が生じているのではないか、という認識を披瀝された。これまでの心理療法シーンで焦点があたっていたのは、対人恐怖、境界例、解離などの葛藤モデルで理解できる病態であった。しかし、近年注目されている発達障害は、これまでの葛藤モデルでは十分にとらえきれないものであり、「噴出モデル」でとらえるのが適切な病態だといえるのではないか。だとすれば、これまでとは異なる治療モデルを確立する必要があり、それが今後の心理療法の課題の一つとなるだろう。
 こういう問題を提起して、河合先生は講義を終えられた。

◆ 「覆いをつくる治療」に対するお二人の評価の違い

このお二人の講義のあと、北山先生の事例に基づいたディスカッション・セッションが行われた。印象深かったのは、ここでお二人の治療観の違いが明確になったことだ。
 まず北山先生は事例を、「覆いをつくる治療」の一例として提示された。そして、古典的な精神分析の治療文化-たとえpsychotic breakdownをおこそうとも、「覆いをとる」(あるいは覆いを剥がす)治療を徹底的に行うことを是とする治療文化-に対して批判的な視点を向け、「覆いをつくる」ことにも積極的な意義があると主張された。
 しかしこれに対して河合先生からは、この事例は実際は「覆いをつくった」治療ではなく、実際は覆いがとれ内面が開かれ、それがholdされる中で実質的な変化が起こった事例だったのではとの指摘をされた。
 お二人のあいだに、この見解の違いがうまれたのが興味深い。おそらくこの違いには、精神分析とユング派の視点の違いが反映しているのだろう。精神分析的な治療では、体験を回避してきたことを体験し、知りたくないことを知る、つまり言葉にして理解することが重視される。そのような治療文化の中では、「覆いをつくる」ことは正統的な技法とは見なされず、「望ましくはないがやむをえず行うこと」という否定的なニュアンスでとらえられることとなり、それゆえ「覆いをつくる」ことの意義を主張しようとすれば、やや過剰にその意義を強調して語らなければならなくなってしまう。つまり「覆いをつくる」ことの意義を述べようとすれば、不自然に力がはいりやすくなってしまいがちとなる。
 一方ユング派の治療者は、前言語的なイメージ水準での交流を重視するため、言葉の水準まで至らなくても、それが治療的に作用していれば肯定的に評価する傾向がある。これを換言すれば、自然に治療的展開がおこっている場合は、あえて言語化という不自然なことはせずに、それを見守ることを是とする傾向がユング派にはあるといえるだろう。それゆえ北山先生が「覆いをつくった」と感じた治療でも、河合先生は前言語的水準では覆いがとれていることを敏感に察知し、その治療的意義を評価したのではないだろうか。

◆ 言語化することの価値を信じる ――それがたとえ不自然であっても――

このような傾向の違いがあるのなら、日本においてはユング派の治療がより自然に体験されやすく、精神分析的な治療は不自然なものとして体験されやすいのかもしれない。日本では言葉にしないことが美徳とされ、逆にあえて言葉にすることは無粋で不作法だとみなされがちである。そのような文化の中では、前言語的な交流やイメージ水準での交流を重視した治療がより受け入れられやすくなり、逆に言語化を重視する治療は流行らないことが、至極自然な反応だと感じる。
 もちろん言語化を回避し、あいまいに事を済ます習慣が成立したのは、歴史的な経緯があったはずだ。閉鎖的なムラ社会に生きる人たちは、言葉で明らかにすることによって生じる対立や葛藤を避けて、集団の安定化を優先するようになり、その中であいまいな表現で対立を回避することが美徳とされるようになったのだろう。それとともに言葉にすることへのおそれも強まり、言葉に霊力を見る傾向も長く維持されることになったと考えられる。
 しかしグローバル化が進み、価値の多様化が否応なく進む現代に生きる私たちは、こうした伝統をも相対視しなくてはならない。異なる価値をもった人たちとの共生を進めるためには、これまで言葉にせずあいまいにすませてきたことも、あえて言葉にして考えなくてはならなくなっているからだ-それがたとえ不自然なことであったとしても。

◆ フォーラムの発展に期待する

もちろん、臨床心理の世界においても同じことが言える。われわれはこれまで、他の流派や学派の治療に接して違和感が浮かんだとしても、友好的な関係を保つために、その違和感をあえて言葉にせずに済ませてきたのではないだろうか。あるいは「名人」とみなされる治療者の言葉に対しては、それを批判的に吟味することなく、ただご託宣のようにありがたがって摂取するだけに済ませてきたのではないだろうか。そうした態度は短期的には集団の安定をもたらしたとしても、長い目で見れば、臨床心理学の発展の可能性を大きく毀損することになるはずだ。このリスクを回避するには自らの中にわき起こる違和感に開かれ、それを言葉にしていく努力を、われわれ一人一人が根気よく続けるしかない。
 こうした努力が求められていることを考慮すれば、この日本語臨床フォーラムという場のもつ意義は、これからいよいよ高まるに違いない。それはこのフォーラムが、ひとつの言葉をめぐる考えの違いを胸襟をひらいて話し合える、数少ない場の一つだからだ。
 さらに今年からは、ホームページという対話の場も設けられた。コンベンションとホームページという二つの場が有機的に連動し、ここに集う多くの人たちを刺激して対話がさらに広がることになれば、これほど面白く、かつ有意義なことはないだろう。
 北山先生と河合先生の対話が参加者にひきおこした惑乱が、ホームページでの議論にどんな影響を与え、そして来年の大会へどのように連結されていくのだろうか。大きな期待を抱きつつ、コンベンション2013の開催を待つことにしたい。

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